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登山研修所友の会 30周年記念 特設ページ

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​藤平正夫氏の講演    記念植樹               松永敏郎氏の設立趣旨説明

30周年特設ページの開設にあたって

                             会長 渡邉 雄二

 

 友の会は平成2年(1990年)10月27日に設立され、令和2年(2010年)  30周年を迎えました。昨年10月に30周年記念行事を予定しましたがコロナ禍の関係で延期をせざるを得なくなりました。本年令和3年には是非祝賀記念行事を10月及び11月実施する予定でいます。記念行事の内容としては、記念式典、座談会、祝賀会、記念山行、記念誌の発行、研究会での記念講演会など予定しています。行事の中では、初代会長湯浅道男氏、2代目会長栁澤昭夫氏の業績と人柄を偲ぶ会も予定したいと思っています。コロナ禍ではありますが、可能な限りコロナ感染防止を徹底した上でハイブリット方式なども取り入れて実施すべく準備しております。詳細につきましては、後日会員の皆様にご案内を差し上げるとともに、ホームページにも掲載しますのでよろしくお願いします。

 友の会は、登山研修所の研修修了者や講師などで構成し、登山技術、海外登山、登山医学に関する研究、研修事業を通じて会員の交流を深めるとともに、相互の交流を深め、我が国の登山の健全な発展に寄与することを目的として設立されました。登山研修所で開催された設立総会では、初代会長には湯浅道夫氏が選任され、記念講演として日本山岳会副会長(富山県山岳連盟会長)の藤平正夫氏が「21世紀の登山界を展望する」と題して記念講演を行いました。その後、記念植樹を行い、参加者全員で設立祝賀の宴を開催し友の会の船出となりました。お陰様で現在の会員数は賛助会員も含め300名に近い数となっています。

 設立にあたっての発起人は次の方たちでした。湯浅道夫(故人)、松永敏郎(故人)、増子春雄、島田 靖、重廣恒夫、谷口凱夫、山本一夫、浦井孝夫、柳澤昭夫(故人)、渡邉雄二の10名でした。

 つきましては、30周年と言う節目の祝意の意味と設立当時のことなどを記憶にとどめるために、発起人の方々からご寄稿いただきました。順次、友の会ホームページに掲載しますので是非ご覧ください。

 掲載した写真は、設立総会、藤平氏の記念講演、記念植樹の様子です。

「友の会30周年を祝って」                                    坂口三郎

 登山研修所友の会、30周年おめでとうございます。平成2年、浦井所長の提唱により発足したときいておりますがその慧眼と会員の皆様の活躍に敬意を表したいと存じます。文登研は昭和42年7月1日に開設されておりますので友の会は22年たってのスタートになります。昭和31年5月、槙有恒隊長率いる第三次日本山岳会登山隊がマナスル登頂に成功してから空前の登山ブームが起こり、山岳遭難も激増しました。昭和34年、国会でも取り上げられ、文部省では対応を迫られました。その結果、優秀な登山指導者を養成することになりました。文部省は登山研修所を設立して、指導者を養成する。登山者側は昭和35年5月に新たに発足した日本山岳協会(会長、武田久吉、日体協の仲介によりJACと全岳連との共同組織で日体協の加盟団体)による指導者の養成でした。私は第2回文部省登山者養成研修会と銘打った蒲田温泉今田館の会に参加しました。昭和36年7月です。新田次郎の基調講演があり、文部省の松島茂喜スポーツ課長の誠意と熱意を感じたことを覚えております。この養成研修会は10回行われました。

 登山研修所は昭和42年7月に開所しましたが土地の選定、研修内容等について槇さんの影響力が大きかったと思います。日山協は昭和42年、社団法人として再出発しますが、槇有恒氏が1期2年の約束で会長に就任されます。今般のコロナ禍で外出もままならず本棚の書物をすみずみまで読んでおりましたら槇さんの日山協会長退任の挨拶が載っておりました。

「最後にこの機会を借りて一言お願い申し上げておきます。私は現在、文部省登山研修所の運営委員をしております。そして私は常にこの研修所を運営していくためには、広く世の協力なくしては、せまいものになってしまうということを思うのもであります。何分にも設立後、日も浅いものですから、研修参加各位にとって不自由な点も多いとは存じますができるだけ広く優秀な講師を集め、不断に清新な成長をするよう念願しておりますので、優秀な講師をご推薦くださるようお願いいたします。また各地にもこの種の登山研修所が生まれると聞いておりますが、この点についても皆様の温かいご支援をお願いしたいと存じます。立場を異にしても、期するところはわが国登山界向上のために貢献することにあると思います。ここに重ねて皆様のご支援を感謝申し上げます。」と述べておられます。

 研修所の所長室に掲げられている扁額に

「山は黙して語らず されど 内に深き想ひあり  昭和五十二年盛夏 槇 有恒」とあります。槙さんは友の会の発足を念じておられたと思います。そしてその30年の実績を高く評価されているでありましょう。友の会の益々のご発展ご活躍をお祈り申し上げます。(第8代 日本山岳協会会長 坂口三郎)

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坂口三郎氏近影(右から3人目).JPG

登山研修所内の槇有恒氏の扁額                                                 坂口三郎氏(右から三人目)

『登山研修』に垣間見るヒマラヤ登山の変遷に思うこと                                                                                  重廣恒夫

国立登山研修所友の会発足から早くも30年、=光陰矢の如し=と言われるように月日の経つのは早いものだと改めて感じています。故 湯浅道男さんに誘われて登山研修所の玄関をくぐったのは1974(昭和49)年でした。それから2007(平成19)年まで講師・専門調査委員・運営委員として、登山研修所にお世話になりました。

  友の会創設の目的は、研修会や講習会の参加者、講師並びに関係者がさらに研究・研修を深め、個人のスキルアップや広く安全登山の啓発をおこなう事でした。今回改めて友の会の30年を思い出すために、1985(昭和60)年に創刊され、今年で36号を数えた『登山研修』に目を通しました。『登山研修』の毎号には、登山に関する調査研究、登山界の現状と問題点、海外登山記録について、多岐にわたった評論や論文・レポートなどを掲載し、時代と共に変化する思考や技術・用具などの面から安全登山の啓発に寄与してきたと思います。

  研修所の講師をしていた1970~80年代は、海外登山、特にヒマラヤ登山の盛んな時代で“団塊の世代”を中心として、講師陣にも海外登山経験者が多かった時代でもありました。また、講師陣を主力とした登山隊もいくつかありました。日本山岳会東海支部による1980(昭和55)年と84年におこなわれた「日本・ネパール国際親善隊」のガウリサンカール登山や1994(平成6)年のバギラティ2峰南西壁登山などがそうです。

  当時のヒマラヤ登山隊で登山研修所講師の参加した登山隊を列記しますと、1973(昭和48)年エベレスト南西壁(第Ⅱ次RCC)、76(昭和51)年ナンダ・デヴィ縦走(日本山岳会)、77(昭和52)年K2(日本山岳協会)、79(昭和54)年ラトックⅠ峰(京都カラコルムクラブ)、80(昭和55)年チョモランマ北壁(日本山岳会)、84(昭和59)年カンチェンジュンガ縦走(日本山岳会)、85(昭和60)年マッシャブルム北西壁・ブロードピーク(関西登高会)などがあり、88(昭和63)年の日本・中国・ネパール チョモランマ/サガルマタ友好登山隊(日本山岳会)によるエベレスト交差縦走には、チベット側に参加した日本人隊員21名中3名・ネパール側に参加した日本人隊員24名中14名もの講師が参加していました。その後も、90(平成2)年試登・91年本隊・92年2次隊のナムチャバルワ(日本山岳会)、95(平成7)年マカルー東稜(日本山岳会)などに登山隊員や支援隊員・医師として多くの講師が参加してきた経緯があります。もちろん他の講師の方々もそれぞれの母体やグループでヒマラヤ登山をおこなっており、その記録は『登山研修』の「海外登山記録」に掲載されています。

  登山を実践する者にとって、1950(昭和25)年のフランス隊による人類最初の8000m峰アンナプルナの初登頂は、世界の数多くの山々からヒマラヤとヨーロッパアルプスへの憧れを高揚させる導火線となりました。しかし、64(昭和39)年のネパールヒマラヤ登山禁止令が水を差してしまったのですが、この事態はそれまでヒマラヤ登山を牽引してきた大学山岳部の集団登山から社会人山岳会の精鋭たちがヨーロッパアルプスに向かう転換点となりました。その始まりは、63年におこなわれた芳野(服部)満彦さんと大倉大八さんによるアイガー北壁への挑戦でした。65(昭和40)年海外渡航の自由化が始まり、社会人山岳会を主体とした精鋭クライマーがこぞってアルプスに向かいました。多くのクライマーによって挑戦されたヨーロッパの岩場も、最大目標であった夏の三大北壁が登られた後、新たな課題として注目されたのが冬期登攀でした。その先陣を切ったのが67(昭和42)年の山岳同志会によるマッターホルン北壁冬季第3登でした。その後も、山岳同志会は70(昭和45)年年2月にアイガー北壁ハーリン直登ルート冬季第2登、12月から71年1月にかけてグランド・ジョラス北壁ウォーカ側稜冬季第3登に成功しました。ヒマラヤでは70年のイギリス隊によるアンナプルナ南壁の初登攀を契機に、「ヒマラヤ鉄の時代」が始まりました。その先陣を切ったのも、76(昭和51)年プレモンスーンの小西政継さんを隊長とする山岳同志会のジャヌー(7710m)北壁初登攀でした。

  その昔、我々が目指したのは冬の岩壁の継続登攀の積み重ねと、ヨーロッパアルプスの先にある先鋭的なヒマラヤ登山でしたが、私自身はそのほとんどを大規模な集団登山に終始してしまいました。そんな事もあって、Vol.12 平成8年度(1996年)以降の山野井泰史さんをはじめとして、信州大学学士山岳会の花谷泰広さんやその仲間、平出和也さんと中島健郎さんのペアなどの若い世代の人達の登山報告に、老体の胸を躍らせたものです。その中で気にかかるのが、エベレストを代表とする8000m峰の公募登山の増加は別にして、最近の日本人によるヒマラヤ登山の数の減少です。1970年代から80年代は第2次ヒマラヤ登山ブームと言われ、毎年多くの登山隊がヒマラヤの頂に向かっていました。

  しかし、『登山研修』のVol.19 平成15年度(2003年)に尾形好雄さんが発表された『最近のヒマラヤ登山の現況』に、エベレストの初登頂から50年を経たヒマラヤ登山の変化と減少の報告が掲載されました。この時に作成された「日本隊のヒマラヤ登山一覧」は2003(平成15)年から08(平成20)年まで続きましたが、09(平成21)年からは池田常道さんに変わり、その内容も「ヒマラヤ登山2009年の主要記録」、「ヒマラヤ/カラコルム2010年の主要登攀」、「世界の主要登攀(2012)、に変わり18(平成30)年まで報告をされました。報告された年度ごとのヒマラヤ登山隊集計が、03年から07年までは年間40隊から70隊あったもの(公募登山隊参加も含む)が08年には21隊に減り、09年から18年は毎年10隊に満たない数まで減少しています。

   ヒマラヤを目指す登山隊や個人の減少には、経済環境の変動に伴う社会環境の変化が背景にあることは明白な事実です。しかし、それ以上に大きな変化は「未知へのあこがれ」と「心・技・体」を向上させるという意識の減退ではないでしょうか。昨年・今年と「新型コロナウイルス」の出現によって、ヒマラヤ登山への志向はさらに減少するのではないかという危惧があります。日本のヒマラヤ登山の隆盛の背景にあったのは、1960年代~70年代に若い人たちが競った国内での登山、特に岩登りや冬季登攀の切磋琢磨でした。コロナ禍の先行き不透明な時期だからこそ、世界レベルのスーパークライミングを実践してきた講師陣を擁する登山研修所友の会が旗を振り、ヒマラヤ登山継承のために、次代に続く若い人たちを創り出す機運を高めたいものです。

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筆者と長谷川恒夫(70_71年厳冬期の赤石沢奥壁でのビバーク).jpg
88年三国友好登山隊BC(前列左湯浅、右磯野)      筆者と長谷川恒夫(70_71年厳冬期の赤石沢奥壁でのビバーク)
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国立登山研修所50周年記念式典(前列右から4人目が筆者)

「友の会30周年を迎えて」                                島田 靖
 早いもので、平成2年に当時の浦井所長の発案により、登山研修所友の会が発足して以来、2020年で30周年を迎えました。私は、その時の発起人の一人です。友の会は、登山を通じ、広域的に巾広い人的なつながりと、個人の登山に対する考え方や研究の成果を自由に発表できる、唯一の組織ではないかと思います。
 発足以来、毎年度の総会時には、研究会が行われ、当時は、会員以外の一般参加者も多く活発で有意義な総会が続いていました。私が友の会の会長に選任されたのは、初代会長の湯浅道男先生、2代目柳沢昭夫先生の後を受けて3代目でした。ミスター登山研とまで言われた柳沢先生が、思いもよらない体調を崩され、入院生活を送られたのち、平成22年3月逝去されたのです。その年の10月の総会において、当時副会長であった私が3代目の会長を引き継ぐことになりました。
 会長になって真っ先に実行しましたのは、全国にいる会員相互の交流と親睦を深めることを目的として、交流会を行なうことでした。実行委員会を組織し、友の会創立20周年記念事業の一つとして、夏と冬に行なうこととしました。会員に限らず、会員の関係者(家族、友人)も参加できることにしました。夏の交流会は、研修所に集合し、施設の開放と懇親会、翌日は家族など、みんな
で立山登山を行いました。冬は、前日に谷口けい氏の講演を聞き、夜は懇親会、翌日はらいちょうバレ- スキー場にてスキー講習と瀬戸蔵山方面での山スキー講習も行いました。友の会としての交流会は初めてでしたが、夏、冬ともたくさんの参加があり、交流を深めとても有意義な時間を過ごすことができたと思っています。
 そしてこの時期、文部省登山研修所は文部省から離れて独立行政法人となり、日本スポーツ振興センターに移管されて、名称も「国立登山研修所」に変わりました。この機会を捉えて、登山研修所を更に広くアピールするためにポスターを 製作しました。(それまであったカレンダーを 名称だけを表示したポスターに変えた)我が国の数あるスポーツ競技種目団体の中で、国立の施設を持つのは登山だけであることのアピールは、「国立」と冠がついただけで、極めて効果の高いもので、全国の公共の施設などに掲示していただくことで、今まで認知度の低かった登山研修所を、全国民に広く認知していただけたのではないかと思っています。
 私の最後の仕事は、平成27年夏の友の会交流会でした。特に2日目の立山 における自然観察会は残雪のある浄土山で立山カルデラ砂防博物館の学芸員の方の解説は非常に興味深いもので楽しい時間を過ごすことができました。平成22年から、平成26年 までの5年間でしたが、各地域の役員の方々にご協力をいただきたくさんの思い出とともに 、平成26年度の総会において現、渡邊雄二
会長に交代しました。

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20周年交流会風景(2012.02.18).JPG
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​谷口けい氏の講演        20周年祝賀会            島田会長の挨拶
 友の会20周年記念交流会「冬の集い」は、平成24年2月18日・19日、登山研修所と山麓スキー場で開催されました。
記念講演は、谷口けい氏の「山と冒険と未知との出会い」と題した講演、記念の懇親会、翌日はゲレンデスキーと山スキーの講習会を開催しました。参加者は46名でした。講演会には国立立山青少年の家からの聴講者も参加し満席の状況でした。
2日間とも天候に恵まれ、会員の交流と立山山麓の冬を十分に楽しみました。

「国立登山研修所友の会」の存在意義                                                                           谷口凱夫

 国立登山研修所友の会発足30周年、誠におめでとうございます。

登山研修所は開設50周年を超えたが、山岳救助活動の組織化、技術・装備の向上、安全確保の面で大変お世話になった。当時は、全国的に組織だった専門的な救助体制を確立していた県が少なく、富山県がそのトップにいたことや研修所の施設が、富山県立山の登山口「千寿原」に有ったことが、大きな要因であった。

 昭和30年代後半から40年代にかけ剱岳は、厳冬期や岩場未踏ルートの初登攀競争が激しくなり、遭難場所は東大谷や劒尾根周辺が多かった。初登攀を目指すベテラン登山者が遭難しているところへ、実際に山岳遭難の現場で救助活動を実践していた先輩、芦峅寺ガイドの後方から、技術も経験もない山岳隊員が救助に向かう、矛盾を身に染みて感じていた時代。

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第一回山岳救助冬山集合(谷口).jpg

そのうちに、厳冬期の赤谷尾根で身分保障のないガイドが二重遭難、「これ以上我慢できない」と総引き揚げする事案が発生、厭でも自力で救助活動をする必要に迫られた。その最先端にいて、無闇に体を賭けて救助活動を実施してきた体験から、救助組織の強化、技術・装備のレベルアップの必要性を痛感、躍起になって取り組んだ。あるときは上司と衝突、山と関係ない部署に配置換えさせられる苦渋も味わった。

昭和40年代に体制が確立され、前進基地としての警備派出所設置、民間の山岳救助専門隊員の創設など、他の県では見られない救助組織の進展を遂げていた時代。やがて山岳救助に強いヘリコプターも導入され、遅ればせながら登山の進展に合わせて、遭難態様に応じて活動できる組織が育っていく。

 以後、全国的に組織化が進み、専門的な隊の創設が積極的に行われた。登山研修所での救助技術研修会、一般登山者の救助技術研修など、レベルは設立当時に比較して、飛躍的に前進・普遍化した。そんな時期に友の会が設立され、登山研修所での成果、人的交流が進んでいく。富山県警から山梨県警へ、山岳警備隊員の相互交換派遣などが行われ、各県警の救助技術、装備は勿論、救助活動に対する意識高揚に大きく貢献した。

しかし、30年を経過する間に、登山のグローバル化が著しく進展、オーソドックスな登山・岩登り等の他、トレラン、山スキー、クライミング(岩・氷雪)、競技登山など「高みへのステップ」に限界はない状況が続いている。

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近年では、大学や高校山岳部の衰退、山岳会の高年齢化が顕著にみられるようになった反面、コロナ禍の影響か、単独、若者(特に若い女性)、家族など小規模のフリー登山者が激増、登る山・種別も区別なしの感がある。先日、県内の小佐波御前山へ登った時、丁度お昼ごろ山頂にいたが、常時50人程度の登山者が屯している現状を目撃、その多さにビックリしたものだ。

富山県警などは、従来、山岳遭難の発生など予想もしなかった警察署に山岳警備隊員を配置し、中・低山の山で、即活躍している現状にあるのも、頷けるほど。

 友の会設立当初は、組織化、技術・装備のレベルアップが大きな課題であったが、現在では中・低山からアルプスの高山、岩場など、あらゆる部門での活動対応が要求されている。下手な救助をすれば、後で訴えられるような厳しい時代になった。

多様化する山岳会(登山者)意識にも、適宜・適切に対応していかなければならず、高度な運動生理学やトレーニング学、登攀技術、装備の研究、海外遠征の人材育成のノウハウなど、世界に匹敵する日本の登山界をリードする、登山研修所の役割は、いよいよ増大していると言ってよい。

その登山研修所を支えるのが、友の会の役目。登山研修所が続く限り、これからも一体となった、側面援助的な活動は、不可欠である。

高齢化してボケ始めた私にとって、近年の「登山研修」は、その字句さへ理解できない程の進化を遂げ、多様化、複雑化している。当然、体力・気力の低下した者には、お呼びでもないが、私も高齢の限界山岳会に入り、70歳過ぎても全国の山々を走り回っていた記憶が生々しい。80歳を過ぎた最近では、自分の身の丈に合った登山を心掛け、2,000ⅿ以下の山を、四季を通じ楽しんでいる。ルートのない雪の藪尾根登攀、春の新緑、夏の花々、秋の紅葉などに加え、山菜採りやキノコ狩り、日本の山の四季は実に豊かで美しい。

登山研修所、友の会での活動を通じて培った、山への感動「山って良いな~」は、山頂で飲む冷えた缶ビールと同じ味がする。 友の会、フアイト!

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雷岩付近 大学山岳部遺体収容 昭和56年8月

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長次郎谷上部での救助活動 昭和30年代後半

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